昭和49年10月03日 朝の御理解



 御理解 第83節
 「一年に分限者になる様な心になるな。先は長いぞ。一文二文とためたのは、みてる事はないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟の掴み取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気でおれ。」
                                                                                  これはお金を貯めるとか、お金持ちになると言う事だけではないと思うです。いろんなお互い願いを持たない者はありませんが、願いが成就すると言う事でもです。それこそあっと云う間におかげを受けると言う事を申しますけれども、あっと云う間に頂いたおかげを頂いた程、脆いものはないです。ですからむしろそこに、神様が分かり、神様の今働きの印を感じたならば、解らしてもらったならば。
 愈々濡れ手で粟の掴み取りと言った様な気を捨てて、本気で一文二文とため上げて行くと言う事の尊さを知らなければいけないと言うならばです。これこそ一分一厘づつでも、本当の事を分からせて頂いて貯め上げて行く。そして受ける所の徳であり力であり、そしておかげであるというおかげ。言うなら信心におかげが付き物というのではなくて、信心には修行が付き物。その修行におかげが伴うてくる、というのでなからなければ、本当の事ではない。今思い自分の思い。
 自分の願いが今やっとこう成就したら、成程さぞ良かろうごとある。様々な難儀があります。昨日一昨日からお参りしてきておる方がありますが、御主人がまあそれこそ、もう何というでしょうかね。特殊な病気です。その為に会社に大変な迷惑をかけた。もう話を聞くと差し引き出来ない様な状態に追い込まれておる。ですからまあそこをなんとか助けて頂きたいと、その色々内容を話しますと、大変興味のある話ですけれども、差し支えがありますからお話しませんけれども。
 その時に私が頂きました事は。「自由なく大自由あり」と云う事。今はもう自由がない。もう窮屈のどうにもこうにも出来ない程の窮屈な状態。だからそこの所を愈々忠実にです。愈々本気でです。ただ働くと云う事は出来るのですから、病気というても私が病気というのは是は精神的な病気です。ですから本気で仕事に忠実にです。もう徹底して仕事に忠実にして行くと言う事を、まあいうならお勤めならお勤めに出ておっても、まあ勤めの時間だけなんとはなしに、要領良くテレンパレンしてれば給料は貰える。
 段々少しずつは昇給もして行くという訳なんですけれども、もう人が見ておろうが見ておるまいが、その事に命をかける。その仕事にその自分の御用に愈々忠実になる。教えを説いても分かりませんから、愈々忠実にもうそれこそ人が見ておろうが見ておるまいが、そうするとね片一方の方のおかげの方とは全然関わりあい、関係ないごとあるけれども、そこからです。大自由のおかげが頂ける様になるんだと言う事になるんだと云う事です。まっ例えばこれを金銭的な問題に置き換えてみましょうかね。
 言うなら三百万なら三百万という今の給料から、利払いだけでもどうにも出来ない程しの借金を、ある事で作ってしもうた。ですからその借金払いを出来る様に、色々な金策をする事に一生懸命走り回ると云う事よりもです。その為に矢張り大変な、あっちこっちに迷惑をかける訳ですけれども、その事は一辺棚に置いた様な気持ちでです。現在の仕事に打ち込みなさい。
 人が見ておろうが見ておるまいが、それは上役から認めてもらう為ではない。ただ認めて貰うとか貰わないとかいう事は、問題ではない。ただ忠実に本気で、その事をです。今まではなるほど、テレンパレンでも給料は貰える。仕事の性質上。けどそうではなくて、本気でそこに忠実にならせて頂くんだ。そこにねこれはいうなら不思議な力。不思議な働きが頂けて、いわゆる窮屈この上もない不自由な中にです。いわゆる大自由のおかげが頂かれる様になると。
 それこそ一文二文と貯めて行く事の方を先にせよと。もうこんなことじゃラチアカン。其れこそ大きな事を考えたり、濡れ手で粟のつかみどりになる様な気になって、なるほどよし、それがあてたと致しましてもです。それはみてやすいのです。信心も同じ事。もう出来るだけ私は信心の方に、信心を本気でさしてもろうて、一分一厘づつでも神様を分からせてもらう。
 まあ例えて申しますとねならお道の信心では、おかげは和賀心にあると仰せられる。和らぎ喜ぶ心和賀心にあるんだと。それこそ和賀心の前には、どういう難儀であろうがです。どういうおかげでも受けられると。それこそどういう因縁があろうが、どういう廻りの深い人であろうが、この和賀心の前にはです。それこそ霜に煮え湯をかけたごとしと云う様なおかげが受けられるのです。
 そこで、その和賀心を目指さして頂いて、和賀心というのが一辺で一年二年で出来たとは思われんのです。和らぎ喜ぶ心というのは。ですからそれを本気で、日々の中にです。和らぎ喜ぶ心とは、和賀心とはどういう心を言うのであるかというその心を、それこそ一分一厘づつでも良いから、和賀心になる事の精進をさしてもらうと言う事。そこである意味においての和賀心と。ならどの様な場合にあっても、喜びが頂けれるような心の状態を頂いたらです。
 それは十年掛かるか、二十年も掛かるかも分からない。けれどもその和賀心の徳という和らぎ喜ぶ心の徳と言う物を頂いた時にはもうそれこそ、あれよあれよという間におかげは頂かれるもんです。それこそ夢に思うておったと言うような事がです。夢以上の夢が実現するんです。その時にはどう言う事になるかというとです。自分の心の中に蓄積してある所の和賀心。
 それこそ、一文二文とため上げる様にして、自分の心の中に、和らぎ喜ぶ心が出来るのですから、それが本当のものになって行くのですから、おかげを落すと言う事が、まず無くなって来るです。和賀心に頂ける所のおかげ、いうなら和賀心と言う物を頂かんなりに、ただ夢の様なおかげをパッと受けて、もうそういう人に限って、信心はもうそれっきりになってしまいます。
 自分の思う様になった。ああおかげを頂いた。神様の働きちゃ素晴らしかというて、それこそ熱を上げる様にして信心をしよるかと思うと、この次に今度は自分の思う様にならんと、神様もあまり当てにはならんと言う様な事で、信心まで辞めてしまうと云う事になる。それなんかは、それこそ濡れ手で粟の掴み取りのおかげを頂いたために、あっという間にみてやすい。そういう信心はみてやすい。そういう信心は崩れやすい。どの様な場合であっても崩れない。和らぎ喜ぶ徳を受けると。
 昨日は同じ様なお届けが、三つ続けてあった。末永先生のところに、電話がかかってきた。この頃から、青年教師の方達が、ここに集まって二日間。下関の広雄先生は、一日人よりも〔早く来た〕。だから三日間ここにおられました。以前ここでしばらく修行した事のある先生から、電話がかかってきた。もう合楽で大変おかげを頂いて、それこそ帰り道のバスの中でも、汽車の中でもさっそく示現活動をさして頂きながら、帰らせて頂いたと言うのです。
 そして昨日の言葉に、昨日はこちらの方の地区の青年の信心の集会があった。そこで、合楽でわからせて頂いた。いわゆる合楽示現活動と云う事の内容として、二時間お話をさして頂いたというのである。又今月の八日頃、御広前がちょっと手が外せるから、もう一辺合楽におかげを頂きたいから、どうぞよろしくという電話であったというのです。もう一つは、宮野教会の御信者さんが二人連れで参ってきた。前にも何回か参ってきた事のある方なんです。
 それが今ここに平田さんとか林さんなんかが、熱心にお参りさして頂いて、それこそ教会の事を一生懸命に祈られる願われる。そのまた親教会の甘木教会の事まで願われる。今あちらの親奥様が、大変病気で重体だそうです。その事を熱心にもうお参りして来るたんびに願われる。自分の教会の親先生の事は言うに更なり。若先生の事を一生懸命願われる。そしてこちらからお参りして帰ると、朝の御祈念の後に残っておれる方達に、前合楽では今朝こういう御理解を頂いたというて話をされる。
 皆がそれを待ち望んでお話を頂く。もう先生有難いんですけれども、この頃朝の御祈念に四、五人熱心な方があるらしい。毎朝御祈念前にお掃除をなさる。便所御広前のお掃除をなさる。もうそれこそ真っ暗い中に、何時もお掃除をさして頂いとりましたが、この頃は若先生がもうここでは常夜灯がずっと付いてますけど、他の教会はもうおしまいになると、御神灯を消して休まれる訳です。だから御広前は真っ暗になる訳ですね。
 ところが私共が朝の御祈念前にお参りさして頂きまして、お掃除をさして頂こうとお参りさせて頂きますと、もうすでに若先生が御神前で御祈念があっとります。もう皆で喜びあって有難い。親先生も本当に合楽のおかげで、あの人がああしておかげを頂く様になったばってん、まあだどこまでほんなもんか分からんけん、まあだ言わんなお願いをしっかりするよと言いなさる。
 先日も「僕は自動車の運転免許を焼き捨てた」と言われた。「そんな事をなさってから」と言うたら「いにゃ僕はどうしても、運転免許を持っとると、遊びに行こうごたる」「だからもう、僕は自動車に乗らん事に決めた」最近は毎朝おかげの泉を読んで下さる。しかも読んでいけば読んでいく程深みが出る。深みが深く分かった所を、又朝の御理解にして頂く。もう本当にこげな嬉しい。
 こげな有難い事はないとこういう訳です。最近なんかは大払いを百巻づつ上げなさる。それで声が出らんでかすれてしもうて、もうやっとかっとの声で御理解をしなさる。おかげの泉を読んで下さる時に、皆が分かる分からんは別として涙を流し、てこの頃朝の教話を頂きます。とこういう。(二分間がある)おかげを頂かなければならんから、一生懸命に朝早起きもする。大払いもそれこそ普通で、とても出来そうにもない様な、五十巻も百巻も上げる様な修行をする。
 おかげを受けなければならんから早速、示現活動に移らしてもらう。バスの中でも汽車の中でも、そして分からせて頂いたそれを喜び、青年会の二時間にわたって、合楽の話をさせて頂いたと。私は此処ん所をです。おかげを頂くと云う事よりもです。本当の信心が分かり出した楽しみ、と云う風に思います。おかげを頂かなければならんから、話すというのじゃない。おかげを頂かなければならんから、言うならもう既に早起きをする事から一生懸命御神前に向かう事が楽しうなって来ておられる。
 言うなら一文二文貯めて行くと云う事が、有難うなってきておられる。お互いおかげを頂くというても、成程誰でもおかげが頂きたい。それこそ濡れ手で粟の掴み取りの様なおかげを頂きたい。百万円の宝くじが、ポカッと入って来る様なおかげを頂きたい、けれどもそれはみてやすいのである。ですからというて、そんならば、辛抱して十年でも二十年でも修行しなさい。頑張りなさいというのじゃない。信心そのもの言わば、一文二文づつでも貯まって行く所の確信が出来て行きよる。
 自分の心の中に今まで湧いた事もなかった有難いという心が、示現活動さして頂く事によって、又は一生懸命神様にうち向かう事によってです。本当の意味においての、信心の喜びが一文二文ため上げられて行く。言うならば自分の心が和賀心にならせて頂く喜びがある。その喜びがです。それこそ一文二文ため上げる様に、一分一厘づつでも自分の心が、本当の信心になるというか、自分の心の中に和らぎ喜ぶ心が生れて来る。
 その楽しみその喜びがです。出来た時それこそ和賀心の前には、一切の廻りも因縁も難儀もです。霜にそれこそ煮え湯を掛けた様に、かき消す様に無くなるだけでなくて、そこから限りないおかげに繋がって行く。そういうおかげなら揺るぎない。今合楽で、奇跡が続出しておるというても、ああ神様のおかげじゃあるというならば、そういう印を見せて頂くと云う事なんです。だからその印に力を得て、愈々信心になる。
 所謂和賀心になる。所謂一文二文貯めあげて行く所の、初めて信心の喜びと言う物を分からせてもらう。その喜びを貯めあげて行く所のおかげ。そこから言うならば、分限者の徳と言う物が、お金で言うならば、本当のお金持ちになれる。信心でいうならば、本当の徳者になれれる。それには一辺でお徳が受けられるとは思われない。それこそある場合には、同じ事を何回も何回も繰り返し繰り返し、それこそ安東さんざゃないけれども、落第しながらでも、本当なものを身に付けて行く。
 そうして貯め上げた物であるなら。そうして出来上がった信心であるならば、愈々本当のものである。宮野の親先生が、本当に一生懸命に、若先生がなって来る様になったから有難い。皆さんのおかげで、合楽のおかげでと言うて、喜ばれるけれど、まあだまあだ油断は出来んとこういわれる。成程油断は出来ない。それが奇跡を求めてならば、愈々油断は出来んのですけれども、お話の具合ではです。
 言うなら、御祈念さしてもらう事の楽しみと、朝早起きをさしてもらう事の楽しみ。遊びなんかは、もう捨て切ろうとするその精進と言う物がです。私は一文二文貯め上げて行こうとする精進だと思うのです。そこから頂ける所のおかげであるならば、みてやすいというそれが、本当の身になって来る。本当の血になって来る。肉になって来る。信心も愈々、信心そのものが、身になり、肉になり、血になっていく信心でなからなければ本当のものではありません。
 これが信心の楽しみも喜びもない。ただおかげを頂かんならん為に長い間信心を続けておると、こんな言うなら無味乾燥な話はない。信心さして頂く事によって、信心の所謂喜びが、一年一年というか有難うなって行くというか。又は、一分一厘づつ自分の身に付いて行っておると云う事が楽しい。そこに信心の私は値打ちがあると思うんです。本気で自分の頂いておるその御用だけに、人が見ておろうが見ておるまいが、それはテレンパレンで、要領良くやっとっても、給料が貰えれる。
 年功がたちゃ昇給もするでしょうし、役も上役も出来るでしょうけれども、それはそれだけの事。けれどもそこに本気で、裏表のない忠実に本気でその事に命をかけて打ち込んで行くならばです。人に認められるのじゃない。神様に認められるのですから、それが絶対の言うならば不自由がなく、大自由のおかげという事になって来るのです。そのおかげが、いうならば大自由のおかげを目指しての信心。私はこの御理解第八十四節は、ただお金身代の事だけの様に表現してありますけれども。
 これは信心の上に置き換えて、今日は聞いて頂いた訳ですけれども、信心の上でも、ほんに一辺におかげを頂こう。本当にそれこそ棚からぼたもちが落ちた様なおかげを願う。そういうおかげがないではないけれども、そういうおかげを頂いた人ほど、信心が続かないと云う事です。それこそみてやすいのです。一文二文と貯め上げたのならば、みてるという事がない。それが力になって行く。徳になって行くからですよね。
    どうぞ。